現在の東北大学農学部跡。
解体が終わり一部引き渡しされた東北大学農学部跡です。
フェンスのシートが剥がされて広く見渡せる状態になりました。しかし一部マンション建設が始まった北東部は高いフェンスが設置されています。いずれ他の場所も高いフェンスが設置されるでしょうから見渡せるのは今だけと思います。
北八と堤通の角。

何本かの樹木が集まって植えられています。いずれ植え替えされるものと思います。

堤通りから東方面を。広さが分かると思います。

北六通り側から。

ブルーシートで覆われていた粟野観音像ですがシートが剥がされていました。移動予定なのでしょう。

粟野観音とは、40年以上にわたり旧制二高で英語を教えていた粟野健次郎教授の人柄を慕い教え子が建てたそうです。銅像を建てたいとの申し出を断り代わりに観音像が建てられたとのことです(大和田 雅人著 「四ツ谷用水 光と影」から)。
そして北六と愛宕上杉通りの角からはなんと中山の観音様がみえます。


これも今だけの景色です。
フェンスのシートが剥がされて広く見渡せる状態になりました。しかし一部マンション建設が始まった北東部は高いフェンスが設置されています。いずれ他の場所も高いフェンスが設置されるでしょうから見渡せるのは今だけと思います。
北八と堤通の角。

何本かの樹木が集まって植えられています。いずれ植え替えされるものと思います。

堤通りから東方面を。広さが分かると思います。

北六通り側から。

ブルーシートで覆われていた粟野観音像ですがシートが剥がされていました。移動予定なのでしょう。

粟野観音とは、40年以上にわたり旧制二高で英語を教えていた粟野健次郎教授の人柄を慕い教え子が建てたそうです。銅像を建てたいとの申し出を断り代わりに観音像が建てられたとのことです(大和田 雅人著 「四ツ谷用水 光と影」から)。
そして北六と愛宕上杉通りの角からはなんと中山の観音様がみえます。


これも今だけの景色です。
東北大学農学部跡地が一部引き渡されました。
約1年半かかり解体された東北大学農学部跡地の一部は整地も終わり購入業者に引き渡されたようです。
北東角のエリアではすでにマンション工事が始まりました。
南東のエリア、イオンモール建設予定地は土壌汚染が予測より多く、土壌改良?に時間がかかったようで、地面を深く掘り下げて土を入れ替えていました。こちらもだいたい終わった様子です。
高い塀が撤去され、広い空間が出現しています。市街地でこれだけ広い敷地はここが最初で最後でしょう。








雨宮神社だけ昔のままです。

この地に農学部ができたのが1947年、その前はここに旧制二高がありました。旧制二高はそれ以前は片平にありましたが、東北帝国大学が同じ片平に創設された為、片平が手狭になってしまいました。ここで地元の名士、伊沢平左衛門氏が「お国の教育の為ならわたしの土地を無償で提供しましょう」とこの地を寄付したとのことです(大和田 雅人著 「四ツ谷用水 光と影 仙台・消えた遺産を追う」から)。
一個人がお国の為に寄付した土地に、時代は変わったといえショッピングモールやマンションが建つ。なんとなくしっくりしません。しかし青葉山に移転した東北大農学部が、そして農学部以外の学部も新しい研究施設で今迄以上の研究、教育を実践してもらえれば皆が納得するのではないかと感じてます。
北東角のエリアではすでにマンション工事が始まりました。
南東のエリア、イオンモール建設予定地は土壌汚染が予測より多く、土壌改良?に時間がかかったようで、地面を深く掘り下げて土を入れ替えていました。こちらもだいたい終わった様子です。
高い塀が撤去され、広い空間が出現しています。市街地でこれだけ広い敷地はここが最初で最後でしょう。








雨宮神社だけ昔のままです。

この地に農学部ができたのが1947年、その前はここに旧制二高がありました。旧制二高はそれ以前は片平にありましたが、東北帝国大学が同じ片平に創設された為、片平が手狭になってしまいました。ここで地元の名士、伊沢平左衛門氏が「お国の教育の為ならわたしの土地を無償で提供しましょう」とこの地を寄付したとのことです(大和田 雅人著 「四ツ谷用水 光と影 仙台・消えた遺産を追う」から)。
一個人がお国の為に寄付した土地に、時代は変わったといえショッピングモールやマンションが建つ。なんとなくしっくりしません。しかし青葉山に移転した東北大農学部が、そして農学部以外の学部も新しい研究施設で今迄以上の研究、教育を実践してもらえれば皆が納得するのではないかと感じてます。
その後の東北大学農学部跡地。
北八番丁、カエルの合唱。
農学部の路地。